2017年4月30日日曜日

編集プロダクションを辞めたこと


こんにちは。遠藤ジョバンニです。

先日は編集プロダクションに入社し、退社を迫られているという話をしましたが、その後めでたく退社し、無職の期間を経てある小さな新聞社に入社することができました。


振り返ってみると、辞めてよかったの一言に尽きます。
あと、数ヶ月契約を延長して仕事をしていたら、確実に私は心の均衡が崩れて休まざるを得ない状況になっていたんじゃないかなと。

それくらい、個人のポテンシャルによる部分が大きかった、つまり「使えるやつが自然と残る」職場でした。

フィードバックのない叱責やつねに誰かがイライラしている職場で私は萎縮しきってしまい、契約期間の終盤には自身の担当本の進行も重なっていたこともあり、「どうやったら仕事をこなせるだろうか」、ではなく「どうやったら締め切りがなくなるか」ということばかり考えていました。


車に轢かれたら締め切りがなくなるだろうけど、最悪死んじゃうからどうしよう。
私の後ろを走っている車とすれ違う瞬間に、さっと足を出したらうまい具合に足の甲とかを骨折して、入院しないかな。でも、足の甲なら最悪松葉杖ついて会社行けなくもないし。でも大腿骨とかは太い血管が通ってるからなー、失血死するかもしれない。うーん。やっぱやめるかー。でもなー仕事行きたくないなー。締め切りなくなんないかなー。

こんな感じで軽率に自分の死を秤にかけつつ毎日会社に行き、慣れぬ進行役に職場の人々を苛立たせ、泣きながら帰ってくる、そんな毎日を過ごしていました。今思い出しても明らかに正常じゃないしなんだかちょっと泣けてきますね。

そんな遠藤ですが、先日あるマンガを読みました。
それがこれ。

左ききのエレン|43話「真夜中に誰もいないオフィスで」
かっぴー @nora_ito | https://cakes.mu/posts/15733

広告代理店で働く人達の「しごと」を巡るお話です。
仕事の内容はまったく違いますが、クライアントから仕事を受ける業務の体系・仕事の流れ、激務であることなども似ていて、どこか自分と重ねて読んでいました。

「大人になる事より、クリエイターになる事を選んだんだ」。かっこいいです。
この話に出てくる、コンペ前に過労で倒れてしまってもなお仕事に戻って最善を尽くそうとする光一くんと、締め切りなんてなくなってしまえばいいと考えるばっかりで、目の前にある仕事をこなすだけで限界だった私にはどんな違いがあったのか。

自分の向上心が足りない、甘えているということもあるんだろうけど、その根底には「自分が仕事で関わるすべての人々が好きになれなかった」ということがあったんじゃないかなと今になって思うのです。

その仕事が好きかどうか、じゃない。私の仕事のモチベーションは「仕事で関わる人々が好きになれるかどうか」。あの人に褒められたい、あの人が納得できるものを作りたい、あの人だったらどう作るか自然と考えてしまう、あの人に相談してみたい。単純ですが、「ベストセラーを作りたい」「自分の手がけた書籍でいくら売り上げたい」、そういった野心で仕事はできなかった。


だから私は「光一くん」になれなかったんだと思います。
現在所属する新聞社で、私も自らの欲に突き動かされて仕事をする日が来るのでしょうか。


幸い、書くことは嫌いになりませんでした。むしろ作業の中で一番楽しかったのが担当分のページを埋めていた時だったくらいなので、ちょっとほっとしています。


2016年10月7日金曜日

さいきんのなやみ

どうも。

最近めっきり涼しくなって、毎日着る服に悩むようになる反面、小デブには嬉しい季節になってきましたね。

さて、今回は、私が現在直面している問題について書こうと思います。

簡単に私の経歴を紹介すると、私は東京の二流大学を卒業後、地元に就職。

その後、自分の好きなことを仕事にしようと仕事を辞め上京。大学時代から興味があった出版関係への転職活動を経て、現在私は小さな編集プロダクションに社員として勤務しています。

ここまでだと、「未経験の第二新卒でもやりたいことを仕事にできた成功者」のように聞こえるかもしれません。しかしご注意いただきたい。この記事は、念願の仕事に就いた人間がどんなことを考え、実践し、夢を叶えたかなどという意識高い系記事ではありません。

編集プロダクションという場所にいてわかったことは、仕事がとにかく過酷ということ。編プロの初任給をざっと調べたところ、


http://kot-book.com/%E7%B7%A8%E9%9B%86%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%80%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%81%AE%E4%BB%95%E4%BA%8B/


と、他の編プロより給料は良いようですが、いかんせん忙しい。クライアントからの無茶な締め切りに必死で応えたり、チーフの取ってきた案件の締め切りが完全に重なり地獄を見たりと、あほみたく忙しすぎる。

それ故に、つねに誰かがイライラしていて、オフィスは険悪な雰囲気が漂っています。1週間に締め切りが複数重なることもあり、担当者は業務をこなしきれず泊まり込みになることもよくある風景です。モノ作りにかける想いよりも効率的でスピード感のある仕事がつねに求められます。


そして私はいま、ある1つの問題に直面しています。それは、所属している編プロの契約満了に伴う進退の決定。お世辞にも仕事の効率が良いとは思えない私は、契約を満了するか正社員を見送り契約を更新するか悩んでいます。書いてるときは楽しい。だけどそれだけでどうにかならないことが多すぎる。

どうしたもんかね。はーおっぱいおっぱい。


2016年7月22日金曜日

批評のやりかた

 創作物の講評をするときに、忌憚なく意見できることは重要だ。気を使って本質をついた議論ができないのでは、成果はあまり期待できない。仲良しサークルで「◯◯ちゃん、絵上手〜」とワイワイやるのも楽しいが、良いところを伸ばすと同時に、悪いところを修正できなければ創作者のさらなる成長は見込めない。

 しかし、講評者が感じたことを講評者が書きたいように吐露する文章は、講評というよりただの感想文だ。講評というのは、その先に、創作者や創作物をより良く導くという目標がある。否定するだけで創作物が良くなったという例は、寡聞にして知らない。否定するだけでなく、具体性を持って指摘する、代案を出す、長所でカバーさせるなど、講評者ができることは多い。

 忌憚なく意見をいうことと、漠然とした批評をすることは同じではない。歯に衣着せぬ率直な物言いが、ときに創作者に不愉快にに受け取られることはある。創作物の否定は少なからず創作者の考えを否定するものだから、快感に思う人は少ないだろう。ただ、創作物を漠然と否定するだけの講評に、どんな意味があるというのか。

 講評するときは、忌憚なく意見を述べることと、漠然とした否定を連ねることを混同してはいけない。創作物に限らず、物事をただ漠然と否定するのは簡単だ。加えて、物事を否定する自分が偉くなったように錯覚するから、気持ちいい。しかし、感想文ではなく講評したいなら、作品をより良くするために何を伝えるべきか、一度立ち止まって、考えてみるのが良いのではないだろうか。